「ぞうれっしゃがやってきた」 あらすじ |
昭和12年(1937)、開園したばかりの名古屋市立東山動物園の園長北王英一(きたおう・えいいち)は、 木下サーカス〈注1〉の舞台で曲芸をする4頭の象たちを見ました。目を輝かせて歓声をあげる子どもたち。象たちは サーカスのスターでした。北王園長は自分の動物園にもこんな象がほしいと思いました。その頃日本は中国との戦争 を始めており、サーカスにいたのでは移動や餌の確保も次第に困難になると危惧されました。北王園長は、サーカス の団長に、象たちを動物園に譲ってくれないかと持ちかけました。 団長は迷いましたが、そのほうが象たちのためになるなら、と決心してくれました。象使いの娘たちはわが子のよ うに可愛がっていた4頭との別れを嘆き、冷たいみぞれの降る中泣きながら象たちを送ってきました。その姿を見て 北王園長は、必ず象たちを守るぞと堅く心に刻んだのです。 動物園にやってきたアドン、エルド、マカニー、キーコの4頭はもちろん子どもたちに大人気、しばらくは穏やか な楽しい日々が続きました。 しかし昭和16年(1941)12月8日、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃から戦争は世界に拡大し激しさを増し て行きました。日本の都市にも爆撃機が飛来して、爆撃を受けるようになりました。陸軍は「動物園から猛獣が逃げ 出したら危険だ」と言い出したのです。「動物を殺せ」の命令がくだされ、各地の動物園でたくさんの動物たちが殺 されました。毒殺、銃殺、餓死・・・・。深い愛情を注いで育ててきた動物園の人たちにとって、それは自分の命を 取られるのと同じほど辛いことでした〈注2〉。 東山動物園も、例外ではありませんでした。ライオン、トラ、クマ、ほかにも多くの動物が殺されてしまいました。 北王園長は、象だけは殺すわけにいかない、何としても守りたい、と思いました。軍や警察に懸命に訴え、何とか殺 されることだけは免れました。しかし、燃料も餌もないのです。動物園の空き地をすべて畑にしても足りず、餌を求 めて必死の努力が続けられました。寒さと飢えで、キーコが昭和19年(1944)2月に、アドンが昭和20年 (1945)1月に死んでしまいました。 昭和20年8月にやっと戦争が終わったとき、マカニーとエルドは生きていました。北王園長をはじめとする動物 園の人たちの献身が報われたのです。 やがて昭和24年(1949)、東京の台東区の子供議会で、動物園のことが議題になっていました。日本でたっ た2頭、名古屋の動物園に象がいると知った子どもたちは、東京に貸してもらおうと決めました〈注3〉。 子供議会の代表が名古屋まで北王園長に頼みにやってきました。しかし、弱っている象たちに長旅をさせるのは無 理だろうと北王園長は思いました。しかも、貨車での運搬となると、2頭を別々にしなくてはなりません。試しにマ カニーだけを象舎から出してみると、残されたエルドは壁に頭をぶつけ気が狂ったように暴れました。固い絆で結ば れた2頭を引き離すことは絶対にできませんでした。 象を運ぶことができないなら、逆に子どもたちを連れてこよう、という案が出されました。子どもたちの熱意が大 人を動かしたのです。大勢の大人たちの尽力のおかげで、日本各地から子どもたちを名古屋に運ぶ「エレファント号」 が昭和24年6月から秋まで何本も運行されました。数万人の子どもたちがマカニーとエルドに迎えられ、背中に乗 ったり体に触れたりして夢のような楽しい時間を過ごしたのでした。 注1 木下サーカスは2012年に創立110周年を迎えます。 注2 東京上野動物園の象たちの悲劇は、絵本『かわいそうなぞう』などでよく知られています。 注3 この子供議会に参加していた1人が2012年2月5日のコンサートで歌うメンバーの中にいます。 詳しくは、東山動物園の公式HPより、「動物園の歴史」をごらんください。 http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/01_annai/01_04gaiyo/01_04-01history/index.html |